ピックル雑学

映画化してほしいピックルの父③

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「ピックルボール父」の物語の続き第3回です。第1、2回目をお読みでない方はぜひ下のリンクを先にお読みください。

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ピックルボールの「3人の父」の中で、用具についてすべて請け負ったといっていい存在が、バーニー・マッカラム氏(Barney McCallum)でした。

この章からは、実務的な部分で、ピックルボール発展に大きく寄与したマッカラム氏に、より絞って記述していきます。

「私たちは誰も、お金のためにピックルボールの仕事をしていたわけではありません。絶対に違います」

次の今から11年前、2014年の動画は、この同氏の言葉から始まります。

▶「olympicvideonews」動画より

続いて最も初期に販売されたピックルボールスターターボックスが映し出されます。その箱の表で楽しそうにプレーしている人たちはモデルではなく、

90%が親戚などの身内だったそうです。

この事実からも、当初は商業的部分の色合いは薄かったことが分かります。

さて、ベインブリッジ島でピックルボールが生まれた日。初日こそ卓球のラケットでスタートしましたが、ボールの重みに耐えきれず、すぐに壊れてしまったそうです。

そこでマッカラム氏は、自宅の地下室に万能糸鋸機を設置しました。

紙に3つの異なるモデルを描き、それを下絵にし、合板をカットしました。次の週末から、それが使われるようになりました。

多少変わってはいるでしょうが、

「今のパドルとほぼ同じだ」とマッカラム氏は、うれしそうに胸を張ります。

▶「Pickleball Channel」動画より

下がスタート時のパドルです。木目がむき出しな以外、確かに今のフォルムとほぼ変わりありませんね。パドルづくりが、マッカラム氏の一人の手に負えないほどの量になってくると、近くの障害者支援施設で働く人たちにお願いしたそうです。

▶「the picklr」インスタグラムより

マッカラム一家は夏の間以外は、ベインブリッジ島の対岸にあるシアトルに戻って過ごしていました。

たくさん島の人達とピックルボールの原型を楽しんだ思い出が忘れられず、冬の間もシアトルの狭い袋小路の路地でプレーを続けたそうです。

この路地の幅は、これまた不思議なことに、ピックルボールコートの横幅とぴったり同じ、20フィートだったのです。

その様子を今度はシアトルの近所の人たちが、通りがかるたび、興味深そうにのぞきこんでいったそうです。

そこでほどなくして中庭にピックルボールコートが作られました。

いろいろな仲間とプレーするようになり、その1人にシアトル大学の学長がいました。そして大学内でもレクリエーションとして広まっていきました。学校経由で各州に広がっていくのに、そんなに多くの時間はかかりませんでした。

また「ピックルボールの父」の3人のうちの1人、ジョエル・プリチャード氏(Joel Pritchard)が当時、米国下院議員に立候補していました。

「ピックルボールをしに来ないか」と、ピックルボールをダシに支援者たちを自宅に呼び寄せました。こんな政治資金集めに利用されたことも、世間により広まる一因になりました。

まさに偶然が偶然を呼んだのです。

パドルの購入を求める人の問い合わせが徐々に増えてきました。

お金を管理する必要がでてきたので、一緒にピックルボールを生み出したジョエル・プリチャード氏、ビル・ベル氏(Bill Bell)が3人共同で出資して「pickle-ball」社を設立することになりました。

偶然は続きます。

ピックルボールに参加していたシアトル・タイムズの社長が、

今度はニューヨークの記者に、ピックルボールの試合を取材してみないかと誘いました。

そしてニューヨークから記者がやってきました。

マッカラム氏は腕利きのプレーヤーを集め、記者にピックルボールを披露、体験させました。

数日後、記事が出たのでしょう。スターターセット販売の依頼がやってきます。4つのパドル、4つのボール、ネットが入ったボックスセットです。「いくらですか?」と問われたマッカラム氏は最初「わからない」と答えていましたが、何度も促され、とっさに「30ドルぐらいです」と答えました。

それで「29ドル50㌣」の値段が付いたそうです。

そのすぐ翌週の月、火曜日と大量の封筒が届き始めました。

すべて29ドル50㌣入りの封筒でした。

そのお金を葉巻箱に投げ入れて管理し始めると、それがどんどん膨らんでいったそうです。

アメリカ中のバトミントン用ネットと野球練習用の穴開きボールをかき集めて、スターターセットは次々に販売されていきました。

ちなみにマッカラム氏は封筒工場に就職し、のちに独立して封筒会社を経営していました。

自らが作っていた封筒が、自宅に送られてきて、そこに大量のお金が入っているなんて、何とも不思議な話ですね。

それにしても手頃な30ドルという言い値がつかなければ、ピックルボールの広まりの速度は、こんなに早くなかったのかもしれません。

マッカラム氏が、本当に欲のない人間だったおかげですね。

冒頭の言葉通り、始まりはお金儲けが主目的ではなかったのです。

次回はそのマッカラム氏の素性、人柄、その残りの半生を掘り下げます。

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大阪府生まれ。大学までテニス部。大阪から情報発信
ピックルに目覚め、ルンルン楽しく上手くなれるのか検証中
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