映画化してほしいピックルの父④

映画化してほしいピックルの父④
「ピックルボール父」の物語の続き第4回最終回です。第1~3回目をお読みでない方はぜひ下のリンクを先にお読みください。




マッカラム氏と日本の縁
ピックルボールの父の1人、バーニー・マッカラム氏(Barney McCallum)は、どんな人物だったのでしょう。一緒にピックルボールを生み出したジョエル・プリチャード氏(Joel Pritchard)、ビル・ベル氏(Bill Bell)との共通項として、ベインブリッジ島の隣人という以外に、全員が元退役軍人というものがあります。
マッカラム氏は1944年にアメリカ海軍に入隊し、USSグラフトンという攻撃輸送艦に乗艦。1946年に1等水兵の階級で名誉除隊しています。
甲板員として、主に太平洋を航海し、時には高さ21メートルのマストに登ってブームを引き上げ、それを固定したりする任務でした。嵐の中、3度死にかけたそうです。
最後の任務は、沖縄戦の最後の戦いの後、1,000人の日本軍捕虜をアメリカ本土へ輸送するというものでした。船がハワイに到着した時に、戦争は終結。
その後、彼の船は日本とアメリカを行き来して、日本軍捕虜、米国兵士たちを本国へ送り届けたそうです。
日本との不思議な縁を感じさせます。
ベインブリッジ島とも
またピックルボール発祥の地である、ベインブリッジ島は、
日系人の強制収容の歴史を忘れないよう祈念する記念碑がある場所でもあります。
真珠湾攻撃に怒ったルーズベルト大統領が大統領令を発令。1942年3月30日、当時ベインブリッジ島に住んでいた276人の日本人、日系アメリカ人は、強制収容所に送られました。
「二度とないように」と日本語で書かれた碑が今も残っています。
軍人である間、敵味方という関係にはなりましたが、少なくともマッカラム氏は、日本、日本人という存在を意識していたのは、間違いありません。
▶「Highlight Media」動画より
日米の平和や友好が、ピックルボールによって、より強固になれば素晴らしいのに、と願うばかりです。
発展に寄与した優しい人柄
今からちょうど10年前の2015年。ピックルボール50歳の誕生日を祝う動画に、マッカラム氏が登場しています。当時、89歳。
ピックルボールを生み出した時の自身の年齢は、退役から19年後、まだ39歳の頃でした。
明るくバースデーソングを歌い、ケーキのロウソクの火を消す姿に、
マッカラム氏の人柄の良さがにじみ出いています。
▶「All Pickleball Jennifer Lucore」動画より
そして、この動画から4年後、93歳でその生涯を閉じました。
3人の「ピックルボールの父」の最後の生き証人でした。
ピックルボールの主な歴史 | |
1965年 | ベインブリッジ島でピックルボール誕生 |
1967年 | プリチャードの隣人ボブ・オブライアンの裏庭に初のコート |
1972年 | ピックルボール保護のための法人が設立 |
1975年 | ナショナル・オブサーバー紙が特集記事 |
1976年 | ワシントン州タクウィラで世界初のピックルボール大会開催 |
1982年 | シド・ウィリアムズがトーナメント主催を始める |
1984年 | 全米アマチュアピックルボール協会(USAPA)設立 初のルールブックも誕生 |
1990年 | アメリカ全50州でプレーさせる |
1997年 | ジョエル・プリチャード氏が72歳で死去 |
2005年 | USAピックルボール協会(USAPA)が設立 |
2006年 | ビル・ベルが83歳で死去 |
2009年 | 全年齢のプレーヤー対象の第 1 回 USAPA 全国トーナメント開催 |
2015年 | USAPA の会員数が初めて 1万人を突破 |
2017年 | プリチャード氏、マッカラム氏が殿堂入り |
2018年 | USAPA の会員数が3万人を突破 全米ピックルボール選手権がインディアンウェルズに移転 ESPNで全米放送される、賞金総額は7万5000ドル(約1000万円)に。 |
2019年 | ピックルボールは参加者数が330万人に バーニー・マッカラム氏が93歳で死去 |
2020 年 | ビル・ベル氏が殿堂入り |
2021年 | USAPA の会員数が5万人を突破 |
大観衆とバースデーカード
「ピックルボールの父」と呼ばれる創設者3人は、全員がピックルボールの殿堂入りしました。ですが、生前受賞はマッカラム氏だけでした。
マッカラム氏は「ピックルボールのお陰で友だちができた」と常々口にしていたそうです。
求められれば、嫌な顔ひとつせず、世間一般の人にも、その誕生秘話を話し続けてきました。
そして
亡くなる1年前には、大観衆で埋め尽くされたある会場に招待されました。
全米ピックルボール選手権が、テニスの聖地の大規模会場で知られるインディアンウィルズに移転した時でした。自分たちが生み出したピックルボールの最高峰を見ようと、会場を埋め尽くした人々の姿を見て「マッカラムおじいちゃん」は、さぞ感激していたことでしょう。
2019年11月18日に亡くなる直前。約2ケ月半前の9月3日、
最後の93歳の誕生日には、世界中から何百人ものピックルボールプレーヤーから誕生日のお祝いのメッセージが届いたそうです。
「マッカラムおじいちゃん」は、そのメッセージをすべて、何時間もかけて読み、感激で涙を流したそうです。
自分の人生を色濃く変え、他人の人生をも変えたピックルボールに、心の底から、感謝していたのでしょう。
エピローグ ピックル由来は「ドッグ」
長らく参考にさせていただいた「Pickleball Channel」チャンネルの動画ですが、その後、ピックルボールの名前の由来を結論付ける動画も追加しています。
▶「Pickleball Channel」
子どもたちが拾ってきた、ルルとピクルスという犬の名前からだと、当時を知る人たちがハッキリと証言しています。「ピクルボート」から派生したという説もありましたが、この動画とは別に、優しい優しい「マッカラムおじいちゃん」が生前「ドッグ!」と答えている動画が残っています。
ピックルボールを愛するからこそ、
ロマンチックな、その由来にこだわっていたことがうかがえます。

ピックルボール父の夢は続いている
これが私が知り、映画になるべきと望む、素敵な素敵な「物語」すべてです。
次の夏でピックルボール誕生から60年が経ちます。そして、この話は、まだ完結していません。アメリカ国内でのピックルボール競技人口は2000万人間近と言われ、さらに現在進行系でその人気は、世界中に広がり続けています。
こんな短いスパンで、新たなスポーツが生まれ、世界に伝わっていく瞬間に、我々も立ち会うことができています。ピックルボールほど急激な勢いで広まらない限り、他のスポーツでは、あり得ないことではないでしょうか?
数年後、ピックルボールがオリンピック競技になっていたとしたら・・・。ほんのほんの脇役ではありますが、同じ時代に生きる我々も、この素晴らしいストーリーの、数多いる登場人物の中の1人と言えるかもしれません。
「もう後戻りはできない。ただピックルボールが好きなんだ」
生前、ピックルボールに半生を捧げることになったマッカラム氏の言葉です。
ですから、ピックルボールに落ち込んだり、悩んだりせず、「マッカラムおじいちゃん」の教え通り、とことん楽しみ、仲間たちとワイワイ笑い合おうじゃありませんか。
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